2010年10月14日

普通の人の「死」の捉え方

私事の話題で恐縮だが、今月、身内に不幸があった。
余命が限られた病気の宣告から亡くなるまでの間、今の医療の在り方、「死」の意味、死の捉え方と迎え方、家族としての送り方等々、考えさせられることが多い1年だった。中でも、気になったのは人生哲学や倫理観をたびたび問われたことである。
今の世の中、完治の見込みがない病気になった場合、医療機関は、おそらく患者本人にその事実をごく普通に伝える。今や、患者以外の家族だけに伝える、というケースは稀のようだ。インフォームドコンセントの重要性が言われて久しい今、病名についても「事実を伝える」ことが当たり前になっている。そのため、患者本人が例え知りたくなかったと後で思うかもしれなくても、事実は正しく伝えられるので、「知らずにいる権利」を守られることはないのだ。さらに、治療法に関しても、医師からいくつかの治療法が提示されるが、選ぶのは患者本人である。基本的には医師は選択肢を提示するまでである。その時に「患者さんの人生哲学や倫理感によって、どのような選択をするかが決まりますよ」と言われるのである。
本来、これは正しいことなのだろうが、それにきちんと対応できる患者は、果たしてどれくらいいるのだろうか?
日々自らの「人生」や「死」について考え、自分の倫理観を確立できている人は、どの程度いるのだろうか?
まず、患者にとっては、完治の望みが薄い病気にかかったという事実を受け入れること自体が、大変な作業であるのは間違いない。そしてそれを受け入れがたい人も数多く存在するであろうし、告知が原因で、もっと大変な問題が出てくることだってあるだろう。治療法の選択肢についても、確かに医師は細かく説明してくれはするが、そもそもベースの医学的知識が希薄な者にとっては、正しく理解することは容易ではない。
私の身内は、治療法を選択する段階では、いみじくも「先生の言う通りにしたい」と言った。
“自分のことは自分で決める”という考え方は、私自身は共感する。けれども、誰もがそう思うわけではない。日々そういうことなど考えずに生きている人は、少なくないはずだ。それに自分で決めずに済むことは、精神的に楽な面もあるし、“知らぬが仏”も事実だ。
人の権利とはなんだろうか? 人によって守りたい権利は千差万別なはずだ。
だから、一様にインフォームドコンセントの重要性を説き、事実を包み隠さず伝える今の医療の世界の正義は、必ずしも正しいとは、私には思えない。
身内のことながら、いい家族に恵まれ、お世話になった医療者の皆さまの説明やご厚意のおかげで、いい選択ができ、安らかな最期を迎えることができたと、今私は思うことができるが、なかなかそう思えないままに終わってしまうケースも多々あるだろうと思う。世の中には「死」を目前にしながらも生き抜く素晴らしさを伝える著書などは多く発行されているが、「普通の人」の死に方について、もう少し考えていければいいような気がする。