2011年9月26日

仕事観の共有

つい先日、私はブランド経営コンサルタントに、パーソナルセッションを受けてきた。自分の仕事の進め方に迷いが出たからだ。
1時間程度のセッションではあったが、仕事への勇気や気力、希望を得て帰ってきた。
人は皆、仕事をしている中で、自分自身のモチベーションが落ちた時、判断で迷った時、どうやってそれを乗り越えていくのだろう。
私の場合は、そのコンサルタントの存在が意外にも大きなものになっているようだ。
その人が私の思考を整理したり、気づかない視点を示したり、軌道修正をかけたりした上で、「あなたなら大丈夫」と背中を押してくれるような気がするからだ。
実はそのコンサルタントとは、私は今までに一度も一緒に仕事をしたこともないし、もちろん友人でもない。出会ったのは今から5年以上も前で、まだ私がサラリーマン時代に出席した戦略的パブリシティについてのセミナーに参加した時のことで、その人はその講師だったというだけだ。それをきっかけに彼が発行するメルマガを読み始めただけだ。会社員時代から今までの仕事人生の中で、私が出会った人の数は何千人にもなるにもかかわらず、だ。
そもそも私は、かつてコンサルタントという肩書きの人をあまり信用してはいなかった。コンサルタントが何をやっているのかがよくわからなかったこともあるし、私の知っていたコンサルタントの名刺を持つ多くの人が、どうにも怪しいと思っていたからでもある。
それなのになぜその人なのか?
それは、仕事観みたいなところにあるように思う。
そのコンサルタントは、ブランドの差別化を考えるときに、「品質・価格軸」から「あり方・生き様軸」に発想の転換を図ることを提唱している。それは、一朝一夕では作れるものではないし、信念なしに作ったものはすぐに見破られてしまうものだ。そこに、私は大いに共感するのだ。
それは、私にとって、その商品で何を目指すのか?何のためにその仕事をするのか?、というところに行きつく。売上や利益の確保、安定経営といった当たり前のことではなく、もっと普遍的な意味、信念とか情熱だ。
いいモノであるだけでは顧客は継続的にはついてはこない。
仕事は、生活する(お金を稼ぐ)ためにすることは間違いないものの、私はそれだけでは長く働き続けることはできない。売上・利益が安定的に確保されないと経営が立ち行かないのは確かではあるが、それだけでは人は継続的についてはこないし、気持ちが摩耗してしまうと思うのだ。
そういう基本的なスタンス、姿勢を共感できるかどうかで、信頼度に変化が出るのではないかと感じている。逆もしかりで、私とは異なるスタンスの人は、私と仕事することは大きなストレスになるに違いない。だから、私は仕事をするのならできるだけそういう姿勢を共有できる人としたいと思うし、これから新たに仕事をする相手は、与信と同等以上にそれを大事にしたいと考えている。
では、私が何のために働くのかと言えば…、それはやっぱりあまりにも青臭くて、ウェットで、理想論と言われると恥ずかしいので、ここでは書かないことにする。

2011年9月20日

Facebookはコミュニケーションの入口?

以前私は、Facebookが少し不気味だと書いた。これに対して、すごくわかるという人がいる一方で、とても大事だという人がいる。物事にはオモテとウラ、いいことと悪いことがあるのは、当り前ではあるが、どうやら今は、Facebookはコミュニケーションスキルを補うツールという側面があるようだ。

訪問営業をする人が、営業先で先方に会えずに名刺だけを置いて帰ることはよくあることだ。その際に、名刺にFacebookのアドレスを書いて置くと、その後の営業につながるケースが高くなるという。面会できなくても、あとからFacebook上のプロフィールを見てもらえることがあり、そこで共通項を発見して距離感が縮まるというのである。出身校や出身地は同じだと急速に距離感が縮まることは誰にも経験のあることだろう。
私個人の感覚では、Facebook上の個人情報は、本来互いの距離感を測りながら会話の中からわかっていき、そのプロセスの中でさまざまな共通項を探していくもので、人間関係はそうやって少しづつ距離感を縮めていくはずのものだと考えていた。けれども、今の時代はそうではなさそうだ。コミュニケーションの入口を簡略化することができるツールなのだ。
会社の中では隣りの席の人ともメールで連絡し、挨拶がきちんとできない人が増えている今、最初の挨拶やどういう人なのかを探るのは、Facebookから、ということなのだろうか。
私にとっては不気味だったり気持ちが悪かったりすることは、そういう人たちにとってはコミュニケーションのためのひとつの道具なのだ。
それでも私はやっぱり気になる。そんなふうに進んでいくと、人はコミュニケーション能力がどんどん退化していってしまうのではないだろうか。大昔、ネットもなくメールもなかった時代、コミュニケーションが手紙や電話以外には対面しかなかった頃には、「コミュニケーションスキル」などという言葉はなかったように思う。口下手とか、話し上手聞き上手などと言われることはあっても、日々のコミュニケーションはリアルのみだったから、そんなことを敢えて言うことはなかったのかもしれない。
コミュニケーション能力がどんどん退化していけばいくほど、コミュニケーションの重要性が言われるようになり、その能力を磨くことに価値が出てくるように思え、そう考えると何とも皮肉な話だ。

2011年9月12日

結局は人間関係

私が長年勤務した会社を辞めた頃は、今に比べればまだまだ景気のいい時代だった。今や大混雑のハローワークはまだ空いていて、求人が求職を上回っていた。その昔は不親切と言われたハローワークは、時代の流れのせいかとても丁寧な対応をしてくれていた。そのハローワークでは、求職者のためにスキルを学ぶための機会をいろいろ提供しており、私は独立開業前に、そこで3カ月でMBAエッセンスを学ぶ「ビジネスプランナー」コース入学の機会を得た。そこでの学びは、勤務期間の集大成とも言え、会社で実践してきたことが理論的に検証された3カ月、とても有意義なものだった。そのコースが終了した2008年9月に私は個人事業主としてスタートしたのだが、リーマンショックはその直後だった。先日、その仲間たちと久々のOB会があった。
約30人のクラスメイトだったが、当日集まれたのはそのうちの1/3に満たなかった。ハローワークが用意した学びの場なので、クラスメイトは、その当時みな失業中。次の仕事に向けて学ぶ仲間だっただけに、リーマンショックの影響は大きかったのは間違いない。次の仕事をみつけるのに苦労した人も少なくない。
そういう中で、卒業後起業した仲間が数人いる。
そのうちの一人は、リーマンショックと起業のタイミングが重なり、それなりに苦労したようだが、その後成長し既に黒字化した。IT系の半導体関連ライセンス販売コンサルティング等を業務としているが、会社の成長を支えたのは人間関係だと言う。IT系とは言え、やはり信頼できる人の紹介、人とのつながりなどが成長に大きく寄与したという。
卒業後すぐに数人の支援者をバックにベンチャーとしてスタートした別の一人は、強烈なキャラクターの持ち主で、そのクラスで勉強中には、発言も異彩を放ち、積極的でとても熱心だった。彼がスタートしたベンチャーがその後どういうプロセスを踏んだのかは知らないが、今彼は、某大手で取締役として多忙のようだ。その企業のトップが彼に惚れこみ、彼もそのトップに惚れこんだ結果、そういうことになったという。これも人間関係の結果だ。
結局は人間関係。結局は人間力・・・そんなことを思うのだ。
学ぶこと、考えることはもちろん大切だ。それを形にして行く努力や気力や推進力といったエネルギーももちろん大切だ。しかし、それを発揮するために必要なのは、人間関係や人間力であり、それが力を2倍、3倍にするのだと思う。
彼らのそういう近況を聞きながら、私はかつての学びを思いだし、改めて人間力を磨かなくてはと、自らを引き締めている。

2011年9月5日

「人」対「人」のコミュニケーション

平日の百貨店は毎日ガラガラだ。
かつて朝10時前になると百貨店の入口には開店を待つ多くの人が群がっていたものだ。しかし、ここ1年はそういう景色を見ることはほとんどない。地下の食品売り場以外は、平日など夕方までの1日中、店内はガラガラだ。わずかの人しか見かけない。買い物をする側としては、のびのびと買い物ができて快適ではあるものの、かつての活況を知る私としては、やや不気味ですらある。
私自身も、今やほとんど百貨店でモノを買わなくなった。本も音楽も洋服も家具も電化製品も、ほとんどWeb上で購入している。リアルな店は、ユニクロや100円ショップなど、安売り系店舗だけだ。百貨店に行くのは、地下の食料品売り場、手土産のお菓子購入、カフェの利用、そしてプレゼント購入の時くらいになってしまった。あとは、実際の商品を、買うのではなく見に行くために百貨店に行くのだ。
こんな状態では百貨店という業態自体、もたないだろうことは容易に想像できる。百貨店という業態自体がもはや社会に合わなくなっているのかもしれない。ネット系流通業の隆盛ぶりをみると、顧客がWeb系流通に流れているのは一目瞭然だ。
そんな風に思っていたら、私の学生時代の女友だちが、メイクのアドバイスを受けたり相談をするために友だちと連れ立って百貨店の化粧品売場に行くという楽しげな話を聞いた。
ちょうど時期を同じくして、ここ2~3年、買い物はネットショッピングしかしなかった女性が「最近はセールスマン返りしている」という話を聞いた。彼女は、どうやら熱中していたネットショッピングにそろそろ飽きてきたようだと自分自身を語った。久しぶりに、セレクトショップやブティック、百貨店で洋服を買うことの楽しさに、今、目覚めていると言う。少し前まで鬱陶しかったはずの人とのコミュニケーションが、今心地よく、楽しく感じると言うのだ。お店の人(セールスマン)にアドバイスをもらいながら、時々自分の個性を褒められたりしながらのショッピングは、まさにレジャー。ネット上の買い物とは全く違う楽しみがあると言う。
震災以降、絆の重要性が叫ばれ、かつては煩わしいと思われていた「人との関係」を再認識したり、人のナマの声や言葉を心地よく感じる流れがあることは確かだ。この流れは今後さらに加速していくのか? それとも一過性なのか?
かつてレジャーだったはずのショッピングがレジャーではなくなり、買い物はネットで充分と私たちが感じるようになっていったことでこれまでWeb系流通業が成長してきたわけだが、振り切った振り子が戻るように、人の気持ちも戻っていくのだろうか。
私から見れば、もはや社会に合わないと思われる百貨店だが、再びお店の人とのやりとりを伴う買い物の楽しさを志向する顧客層が百貨店には戻り、増えていくのだろうか? それとも・・・。
確かに今後、百貨店業態が返り咲く日が来るかもしれない。しかし、それは今すぐというわけではなさそうだ。そういう気持ちが戻ってくるまでの時間を待つ体力が、今の百貨店には残っているだろうか。残っているところしかその日を待つことはできない。もしくは振り子が戻る回顧などせずに、新しい業態開発に向かっていくのか。
震災をきっかけに、ヒューマンコミュニケーションが再認識され、そういうものを求める心が広がっていることは間違いない。が、それは必ずしも「人」対「人」であるかどうかは、まだ答えは出ない。