2011年10月25日

インプットとアウトプット

本を読んだり、セミナーに出席したり、インプットの形はいろいろだが学び続けることは重要だ。学びには新たな気づきがあるし、学ぶことでいずれは自分の血となり、肉となって行くのを実感する日がくる。
しかし、その効果はすぐに表れてくるわけではない。
日々新しい提案をし続けたり、複数のプロジェクトを平行させて動かしているとき、やり甲斐や充実感は大きいのだが、アウトプットばかり続けていると、智恵が摩耗していく。仕事を通じて学べることはたくさんあるが、その学びだけでは、やはり足りないのだ。
特に会社員時代と違って一人で仕事をする私は、日常的に接する人の幅や仕事の幅にも限りがあり、意識してインプットしていかなくてはならないと思っている。新しいことを仕掛けようとも考えているのでなおさらだ。
そういうわけで、私は今年の春から、しばらくは意識してインプットに注力していこうと決め、学びモードに入っていた。

しかし夏が終わる頃から、日常的な仕事がどんどん忙しくなってきた。余暇や休みの時間がまるでとれないくらいに忙しくなってきた。それでも、インプットの時期と決めていたので、セミナーや勉強会、ワークショップなど、随分前に申し込んでいたものが複数あり、多忙な中を追われるようにそういう学びの場に出かけた。

問題はここからだ。

学びの場では新鮮な情報や発想法に感動し、生かしていこうと思うのだが、日常に戻った時点で、頭の中は日々目の前にぶら下がっている仕事のことでいっぱいだ。仕事に没頭する中で、学びの場で感じた感動や意識は、緩やかに温度が冷えていく。次々とくる仕事に追われ、学んだことが風化していく。そしてまた、前に申し込んでいた勉強会に出かける。。。。。出かけるのを面倒臭いと思いながら。
もうこうなると、本末転倒だ。何も身につかないのに学ぶことだけで満足しているのと同じだ。もはやなんのために勉強していたのかすらもわからなくなってくる。
今の私は少しそういう状況になりかかっている。危険だ(苦笑)。
それにしても、学ぶというのは、精神的にも時間的にも多少の余裕がないとできないものだと痛切に感じる。何より学んだことが生かせない。学びは本来無駄なことではないが、もしも学んだことが消化できなかったり生かせないのであるならば、残念ながら学びは無駄と言わざるを得ない。
大事な時間とお金を使って学んでいる私は、今、無駄遣いを進行中だ。
インプットばかりでは意味がないし、アウトプットばかりではすぐに何かがサビついていく。車の両輪のように、両方を回していくよう、今、私はしばし止まって仕切り直しだ。

2011年10月19日

友達は量?質?

またまたFacebookの話題で恐縮だが、Facebookは益々拡大中だ。しかし、私にはやはりどうもよくわからないことがある。
それはFacebookの友達だ。友達が多い人、少ない人。
Facebook上の自分の友達の場合、その友達がどんな人と友達になったか、何人と友達となったかがわかる。これが私が思うFacebookのストレスの一つでもあるのだが(苦笑)、自分の友達が1日に100人とか120人とかと新たに友達になったというお知らせが連日来ることがある。こうなるともう、私にとっては意味不明になってしまう。
すごいなと思って、そういう人に聞いて見たところ、「Facebookの友達は、まず数が大事。最初は質よりも量だ。」という答えが返ってきた。
Facebookを仕事に活用する場合はきっとそうなのだろうと、その時は納得したのだが、それから少し時間がたち、今、改めて疑問に思う。果たして本当にそうだろうか? Facebookの友達は、質より量なのか?

実際に面識もあり、その人の個性をよく知っている場合は、Facebook上の友達の数が多いことはとても大きな強みであろう。例え面識がなくても、何らかの思い入れがあるから友達になっているというケースまでならば、情報発信側にとっては、友達の数は有効だというのはわかる。しかし大勢の友達がいる人によくよく聞いてみると、実際には会ったことがない人がたくさんいると言うのだ。とりあえずどんどん友達申請をして友達を増やしている人も多いそうだ。
こうなると、友達の数は本当に大事なのだろうか?

私が長年関わる広告業界では、テレビ、新聞、雑誌、ラジオというマスメディアを扱ってきた。例えば、オールターゲットのテレビと比べ、趣味志向で読者がセグメントされる雑誌はクラスメディアと言われる。いくらテレビの広告費が高額だと言っても、情報到達の一人当たりのコストは圧倒的にテレビが安い。しかし、知って欲しい人に情報が届いているかどうかで考えれば、1人当たりの広告費が高額な雑誌の方がはるかに確実だ。情報が例え届いたとしても、実際に相手に記憶してもらえたか、理解してもらえたかとなると、もはや内容次第になっていく。だから情報内容を理解してもらうための一人当たりのコストで考えると、一概には言えない難しさがある。

さて、Facebookはそういうマスメディアとは異なり、自分が知っている(または思い入れのある)人からの情報だからこその価値がある。友達からの情報だから聞きたくなるのだ。理解したくなるのだ。
「だれ」が「なに」を言うか?
情報はこれが全てだ。「@@さんが言うことなら」・・・ここがFacebookの面白いところだと思う。
しかし、その「だれ」に価値がなくなれば、結局はそんな情報は価値を持たない。
数で勝負するのであれば、Facebookでいくら数を増やしたところでマスメディアにはかなわない。

先日20代の男女数人と飲みに行ったとき、「Facebookの友達の数なんて増やそうと思えばどうとでもできる。ウソばかりだから信用ならない」と言う女子がいた。

どんなサービスもそうだが、Facebookも普及していく中で、消費者はその使い方や見方をどんどん学習していくことだろう。物事の表層だけでなく真実を捉えるようになり、それに伴ってウラのウラまで見えてくる。
新たにGoogleプラスも普及し始めた今、この手のコミュニケーションのしかたも新しいフェーズに入ったような気がする。

2011年10月13日

お客様の期待に応えるのではなく・・・

顧客のニーズにどう応えるか----------
よく言われる言葉だ。
私自身も、いつもそれを頭に置いて仕事をしてきたつもりだ。期待にしっかり応えようと。
けれども、私が愛読するブランディング・コンサルタントが発行するメルマガの言葉には、まいった。

以下引用
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自分の仕事を見直すというのは、結局は「お客様の期待を上回るには?」を再考することかもしれません。「お客様の期待に応える」ではないのです。
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(引用終わり)

このコンサルタントは、定期的に私に勇気を与えてくれる、[前にも書いたコンサルタント。
かつて私がコンサルタントを信用していなかった頃に、コンサルタントの価値に対して開眼(笑)させた人だ。

その昔、会社員時代は、多少無駄な仕事であったとしてもいろいろやってあげたくなるお節介な性分が、意外とお客さまからは喜ばれていた。その分、協力スタッフには随分無理を言ってきたこともあるが、顧客に喜んでもらえたり、結果として売上が伸びたりすることで賛同は得られてきたと思う(思いたい・苦笑)。
しかし独立してまだ組織もなく仕事をしている私は、なかなかそんな無理はきかない。
最近の私は、もともと過密な仕事があることに加え、自分ではコントロールできない大幅なスケジュール変更や、新たな仕事のスタートなどが次々と訪れ、一度に多くのことを同時並行しなくてはならない状況が続いている。忙しさに追われていると、なかなか「そこまでやるか!」というレベルの仕事まではどうしてもできなくなりがちだ。
しかし、「そこまでやるか!」レベルの仕事をしてもらうときの満足感、感謝の気持ちは、とても大きいものになるのは、受け手の立場で考えれば誰もが経験したことがあるだろう。
改めて、「あんなに忙しくても、ここまでやるか!」と言わせるくらいのことをやってやろうじゃないの!と思い直し、今日も奮起して働こうと思う。

2011年10月8日

世に広めたい・・・Jobsの訃報で思ったこと

10月5日、Appleの会長、Steve Jobsが亡くなった。
これだけの実績、これだけの名言、これだけのこれだけの変革をやってきた人は、ちょっといないだろう。
私の周りにはAppleの熱烈なファンが多く存在する。
デザインがいいから、操作性がいいから、、、Windowsは嫌いだから(笑)、、、
どれもわかるけれど、選択購入するかと言えば、私自身は微妙なところだ。そこまでAppleの熱烈なファンではない。けれども、気づけば随分前からiPodを使い、今この原稿もiPadで書いている。私にとってAppleは自然に生活のなかに入っている。
Docomoを使っているけどiPhoneが欲しいと言って、携帯電話であるはずのiPhoneなのに、両方持つ人は少なくない。

最後に見たプレゼンテーションの時の彼の映像。
さすがに痩せ細った体は、見ている方もつらかった。
これだけの実績、これだけの名言、これだけのこれだけの変革をやってきた人。。。
その功績の大きさに、メディアは改めてJobsの価値を取り上げ、元々のカリスマはさらなるカリスマへと引き上げられていきそうだ。
確かにAppleの製品はすばらしいものではあるが、でも私がJobsが好きなのは、むしろ彼の生き方と思考スタイルだ。
「今日が人生最後の1日だとしたらどう生きるか?」
「世の中の起業家は、起業が目的ではなく、アイデアを世に広めたいだけ」
なんて素敵な思考だろう。
だからAppleは魅力的なのだ、と思わせてくれる言葉だ。

ジョブズを目指すとか目標にするなどは、あまりにも恐れ多いが、それでもこういう気持ちで生きていきたいと思うし、私の仕事でも「私がいいと思うことを他の人にもただ知ってほしいだけ」という思いを持ってずっと続けていきたいものだと改めて思う。

ご冥福をお祈りします。

2011年10月3日

情報弱者

Twitterなどのつぶやきで最近よく目にする情弱。
最近の言葉に疎い私は、「情弱って何?」と思っていたが、「情報弱者」のことらしい。

ある人のブログでは、こんな一文が書かれていた。
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このご時世にスマートフォンを持ってないとか、SNSを使っていないとか、クラウドとか使っていない、あるいはまったく使いこなせていないというのは実に滑稽な姿ですよね。
ガラケー(笑)とかマスメディア(笑)とかに依存してて、最新の情報デバイスを使いこなせていない上に、一方方向的なメディアの情報を鵜呑みにして旧態依然的な価値観で生きてる高年齢者層って見ているだけで笑えちゃいますよね(笑)
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高年齢層という点ではやや戸惑いがるものの、それ、私のことです、ハイ。
上記抜粋では、旧態依然的な価値観で生きている層に対して相当手厳しく冷たいコメントではあるが、このブログの文章を最後まで読むと、そう冷たい発言ではないので、ここだけの抜粋では危険ではあるのだが、それにしても、社会的にそういう目で見られている一面があることは否定できないだろうと思う。
「情報格差」が言われるようになって、約10年。情報量の差は、技術を使いこなせるかどうかの能力差とも言え(必ずしもそれだけではないが)、10年前から比べれば格段の技術革新があるなかで、その能力差は拡がるばかりだ。
実際、マスメディア発の情報が1方向だけであった事例を知ると、「情弱」のせいなのかもしれないと思ってしまうことも否定できない。インターネット上で調べれば、すぐに反論や別の見方が見つかったりすることもあるからだ。
けれども、「情弱」な私から見れば、「滑稽」とまで言わしめる価値観に対しては、少々気分がよろしくない。情報格差は、経済的な格差につながりかねないことから社会問題にまでなっているのは充分うなづけるものの、感覚的な「差別」意識へとつながる怖さが潜んではいないだろうか、とふと思ってしまう。これが、被害妄想にすぎないと笑い飛ばしてもらえればいいのだけど。。。。