2013年10月21日

ドラマ「半沢直樹」から思うこと2


今さらではあるが、前回に引き続き、ドラマ「半沢直樹」から思うことのもう一つを書いてみたい。

番組終了後、このドラマがきっかけで、あちこちでこれを今の社会現象と合わせて評論された。
中でも注目されるのは土下座。
NHK「クローズアップ現代」でも、土下座に注目し、ドラマから始まって、現実の企業経営者の謝罪会見での土下座などを紹介していた。
このような形は、日本人が心のゆとりを失って不寛容になり、相手を土下座させるまで追い込む風潮が広がっているからだと分析している。

私には、土下座くらいで何をそんなに・・・という感覚がどこかにあった。
それは、和室で正座してご挨拶をすることと、土下座をすることとが、そんなに大差あるように思えなかったからだ。
正座して手をついてのご挨拶=旅館などの「いらっしゃいませ」の形と、土下座の形。私から見るとその体勢には大差がない。
極論をすれば、そのときのご挨拶の気持ちが、偶々お詫びになったのが「土下座」だと言ってもいいくらいだ。
しかし、ドラマの中の土下座は随分違う。

屈辱の象徴。
土下座する側の人は、ブルブルと震えながら、やっとの思いでしゃがみこみ、絞り出すように声を出して土下座をするシーンが、半沢直樹に屈服した象徴のように描かれていた。

このドラマ、そして社会現象として取り沙汰された「土下座」と、私が認識する軽い「土下座」とは、いったい何が違うのか。
その大きな違いは、自分から土下座をするか、土下座させられるかの違いのような気がする。

謝罪する、詫びる、という行為は、本来強制されるものではないはずだ。
強制された謝罪には、申し訳ないと言う気持ちが伴いにくいわけで、もし伴わないのなら、謝罪してもなんの意味もない。むしろ、理不尽な土下座も少なくないのではないだろうか。
ましてや、土下座させる側から見れば、「頭さえ下げればいいんだろう」などという気持ちで土下座してもらったところで、何の意味があるのだろうか。

男性の場合は、頭を丸めて「坊主にする。」というのも、近いかもしれない。
「坊主にしろ!」と言われて頭を剃るのと、自らの謝罪の気持ちを表す「坊主」との違いだ。
そうだとしたら、仮に屈服させたとしたところで、それこそ倍返しのリスクを背負うだけだ。

私自身は、仕事でミスを犯し、クライアントに土下座がしたこともある。
しかし、それは強制されたわけではない。
申し訳ないという気持ちを表現するときに、芝居がかっているとは思ったが、当時は若くて土下座しか思い浮かばなかったのだ。
だから、土下座で屈辱的な思いなどは全く感じなかったので、ドラマの土下座とは全然様相が違う。
今思えば、あれは土下座をするようなことではなかった。
実際、謝罪した相手は、私のその態度に驚き、許してはくれたものの、振り返ってみると、相手にとってはきっと、あまり気持ちのよいものではなかったと思う。
今考えてみれば、もっといい解決策があっただろうと思う。
そういう知恵がなかったから、土下座するしかなかったのだなと、今、苦い思いで振り返る。

さて、半沢直樹のドラマ終了後、衣料品店で販売員を土下座させた画像がSNSに出回った。
「やられたらやり返す。倍返しだ。」どころか、やられてもいないのに、ネット上で晒し者にするなんて・・・!と、私は画像投稿者に対してかなり驚いたのだ。
が、その後、土下座させた方が強要罪で逮捕される騒ぎへと発展した。
こうなると、それはもう土下座した販売員からの倍返しに他ならない。
やられたからやり返したのだろう。


世の中で話題になったのは、土下座をさせるという行為と、それを生むストレス社会についてである。
たしかにそういうことはあるだろう。
さらに、ドラマ「半沢直樹」が、目上の人に対して土下座をさせたのに対して、衣料品店の例は、立場が下の人に対して強気に出る、土下座だ。世の中で話題になる、企業トップが土下座するのも、結局は顧客を意識した社会に土下座して謝罪するのだから同じことだ。
ドラマでは、相手が目上なだけに、目下の人に大して土下座させる以上の小気味よさのような感覚が、視聴者にはあったかもしれない。

でも、それ以前の大前提として、人の心は変えられない、ということ。
強制、強要などできないということ。
そんな当たり前のことが、いつの間にか忘れ去られていくことが問題ではないかと私は思う。
何でも意のままになる、意のままにできる~そういう傲慢な方向に人々が皆で向かっていることだ。

強制したところで、それはその時だけのこと。何も解決しないし、何の意味もない。
特に心や気持ちなど、本人以外の人が変えることなどできはしないのだ。

しかも、自分よりも弱い者、下の者に対して強気に出ること、気持ちを強制しようという行為は、暴力につながっていくわけで、私にはそれがとても気持ちが悪い。

だから、変えられないからこそ、どうやってわかってもらうか。どうやってわかり合うか。
どうせわからないだろう、どうせ無理だろうではなく、どうやってこちらの主張をわかってもらうか。
政治も、職場の中でも、社会生活の中でも、家庭の中でも、土下座させて主張を通すのではなく、理想論のようだが、心から納得してもらう、理解してもらうためにどうするか。
子どもの頃に読んだイソップ物語の「北風と太陽」のように、あの手この手を考えたい。
知恵をしぼりたい。
土下座の背景を考えることにとどまらず、じゃあどうする?!という方向に目を向けたいものだと思う。