2014年8月25日

自分の命を人に預けない

広島を始め、多くの地域の土砂災害被害は大変なものになっている。
テレビ画面に映るあり得ないような惨状に、言葉もない。
朝になったら、家の状況や周りの状況が一変しているというのは、どれだけ大きなショックだろう。この蒸し暑い中で、土砂と格闘されりうのは想像するだけで気が遠くなる。

被害に合われた方には、心よりお見舞い申し上げます。

この状況を見て、私たちはいったい何を学べるのだろう。

このような災害による被害をどう防いだらいいのか、どのような対策ができるのか、どうしたらいいのか・・・・ ?

それに対して、NHKの防災担当記者がテレビで言っていたのが「自分の命を人に預けない」ということだった

今や、自然災害の大きさは、想定範囲を大きく超える。
大雨も洪水も、地震も津波も、竜巻も台風も。
少し前ではありえないような異常気象が頻発している。

「自分の命を人に預けない」とは、「自分の命を自分で守る」ということだ。

何が起きるかわからないから、いろいろなことを想定しながら、自分はどうすればいいかを自発的に自律的に考えること。自ら情報を取りに行き、自ら想像力を働かせて、自ら何をしたらいいかを考える。
〜そういうことだ。

これを聞いて思った。
これは、防災だけではない。
人生も、仕事も、何もかも。
そういう時代になったのだな、とつくづく思うのだ。

会社だって、仕事だって、明日はどうなるかわからない。
今日安泰なことが、明日安泰であるかどうか、どんどんわからない時代になってきたと思う。
しかも、何をすれば安心、という「100%」が、今の時代にはないのだ。

自分で自分をどう守るかなど、かつてはそうそう考える必要などなかったのではないか。
それはきっと、会社が、ご近所が、家族が、支えてくれていたのかもしれない。
そこまで急激に変化するようなことが多くなかったこともあるだろうが、変化に対して、廻りが守ってくれたことも大きかったし、会社や地域の人が考えてくれたり、専門家の人が考えてくれたりしていたのだと思う。

今は、かつてよりも情報はたくさんある。情報源も増えた。危険を予知する方法だって以前よりも増えているかもしれない。
しかし、情報がたくさんあったとしても、どの情報を取りに行くかを決めるのは自分。選ぶのも自分だし、情報を取りに行くのも自分。さらに、その情報を元にどう考えるかも自分だ。
医療だって、お医者さんにお任せだったのが、今ではどのお医者さんに診てもらうか、どこで診てもらうかを自分で探し、選ぶことで、より良い医療が受けられるし、治療法だって選ぶ時代だ。
どれを選ぶかを一緒に考える人や教えてもらう人との関係性まで、以前よりも自発的に作ることが求められつつあるように思う。

そういうことを自由自在にできる人はいい。
選択誰もがそういう人ではない。そうはできない。
何をどうしたらいいか迷う人、わからない人には、とても厳しい時代になったと言わざるを得ない。
でも多くの人がそうなのではないだろうか。

命も人生もすべて、人任せにするな。自分が自分で決める、考える、そうしなくてはいけない時代。
自己責任という言葉が話題になってからずいぶん経つが、もはやそれは当たり前で話題にすらならないのかもしれない。
わかるけれど、厳しい。

人生を人に預けない。

防災を考えることで厳しい時代を再確認し、自分自身の人生についてもしっかり自分で考えることが、今、求められているのだと改めて思う。





2014年8月22日

実家にある昔の写真、片付けられない? 片付けたくない?!

「もったいない」が口癖の戦前・戦中世代の親を持つ人たちにとって、実家の片づけは大問題だそうな。
メディアでも度々特集され、NHK「あさイチ」でもスタジオでも視聴者FAXでも大いに盛り上がっていた。今週、ビジネス誌『週刊東洋経済』では「実家の片づけ」が40ページの大型特集を組んでいるくらいだ。

片づけというのは、単にモノを捨てるかどうかという問題ではなく、何が大事で何が不要かを区別する、自分の価値観の確認や棚卸しに通じるので、ココロの問題でもある
しかも本人が片づけるのではなく、片づけについて人と話したり一緒に片づけたりする場合は、それを理解できる関係かどうかにつながるので、家族のように関係性が近ければ近いほど難しくもある。

私自身もモノがなかなか捨てられないタチで、どんどんものを溜め込むタイプだ。
特に思い出にはめっぽう弱い。
幸いなことに私の親は比較的あっさりしていてあまり溜め込んではいないので、今のところ私には、実家の片づけという悩みはない。
しかし、親が高齢になって体力が衰えた分、モノを片づけたくても片付けられないから手伝って欲しいという話が来ることが増えてきた。

その中の一つに写真がある。

昔、写真は大事な宝物だったと思う。
立派なアルバムに貼ってあったりするものだ。さて、それをどうしようか?
写真の片づけは難しい。私が最も弱い「思い出」の塊だから。

親が保管してある写真は、親の幼少時代や親戚など、自分のルーツに関わる写真も多いし、私自身が親に可愛がられていた証のようなものもあり、処分するのはそう簡単ではない。
写真は、ゴミ屋敷の元になるような溢れかえるものとは違うが、処分したくもなかなかできないものの一つであることは確かだ。


元々は、高齢の親の人生を子どもがまとめ、感謝の気持ちを親に贈る、のという意味合いでスタートし、提供しているものだ。
しかし、贈り物であろうがなかろうが、写真自分史は、写真を整理する上で有効だと思う。

たまっている写真の中で特に大事な写真はどれか。
それを選別し、その説明を一つづつ付けたコンパクトなオリジナル写真集を作るのだ。
ちゃんとした写真集があれば、残りは比較的安心して捨てられる。
できあがった写真集を家族や親戚に配るのも悪くない。

自分史を書くのは自分をふり返るのに有効と言われるが、日頃文章を書き慣れていない人にとってはハードルが高い。
しかも、書く本人にとっては一生懸命な時間をかけた作品には違いないが、読む人にとってどこまで興味深いものかどうかは疑問なのが辛いところだ。

お元気な人が多い自立型老人ホームには、しばしば図書コーナーがあり、入居者さんが書いた自分史が並んでいる。
特に大学教授やお医者さん、経営者や大企業の重役さん等、社会的な地位の高かった人の自分史が目立つ。
ここに並んでいたとしても、どれだけの人が読むのだろう。

でも写真ならちょっと違うのはないか。
読み手への負担が小さいので、 気楽に見られる。
家族や親戚、友人知人なら、さらに興味深くなり、積極的に見たくなるだろう。
写真だけだと何の写真かわからない場合もあるが、一言二言説明が入っていれば読み手にもわかるし、それがきっかけで会話もはずむ。

自分の人生をふり返るのは大事、棚卸しをしようなどとしばしば言われるが、誰もがそうそうできるものではないだろう。
でも写真を整理するならできるという人もいるのではないか。

本人が思い出に浸りながらやるもよし、楽しみながらやるもよし。家族と一緒にやるもよし。
それが結果的に「家族のためにやる片づけ」になり、「自分のためにやる片づけ」にもなって、人生をふり返ることができるのであれば、一石二鳥、三鳥だ。


2014年8月19日

今の時代のプロフィール写真、その撮り方とは

フェイスブックを見ていると、「プロフィール写真を変更しました」というお知らせがよく出てくる。
新たに自分の写真を撮影したり、前の写真よりもっと気に入った写真が出てきたりするから、変更するのだろう。

そういう写真を見て、
「おっ、ずいぶん化けたな。」と思うことがある(苦笑)。
実際のところ、それは成功なのか、失敗なのか・・・・?!

撮影してもらって楽しかった~!という満足が欲しい人なら、
それはきっと成功なんでしょう。
でも、もしもその写真がビジネスにもつながる可能性のあるプロフィール写真である場合は、必ずしも成功かどうかは、疑問だと思う。

ビジネス使用の場合、1度も会うことなく終わるのであればいいけれど、いざ会ってみて「あれれ?!」ということになると、これはちょっと困りものではないだろうか。
それを逆手にとって上手に商売している方もいらしゃるが、そうでないと、イメージダウンにつながりかねない。

タレントさんのようなポーズをしたり、素敵な写真に加工してもらった写真の場合、被写体本人の満足は大きいかもしれない。変身できるのだから。
けれど、その写真のイメージで初めて会う者の立場からすると、イメージとの差異に驚いてしまうことになる。
それがうまく行っている人も中にはいるが、その写真が無用なイメージダウンにつながるとなれば、却ってもったいないことだ。
穏やかな人のはずなのにイケイケの元気な顔写真だったり、妙なガッツポーズをしたり、不自然なオスマシであったり。
これがモデルのように撮られ慣れている人でないから、余計に違和感が出てしまうのだ。
私自身も、そういう方に何度かお会いし、変に無理しない方がずっといいのになあ、と思うことがたびたびある。

自分のプロフィール写真の良し悪しは、なかなか自分ではわからないものだ。
美しいかどうかよりも、魅力的かどうかの方が、実ははるかに重要ではないかと思う。

魅力的とは何か?!
これについては、別の機会に書こうと思うが、要は好意的に思えるかどうかではないだろうか。
どんなに美しくても性格が悪そうに見える顔だってあるし、ハンサムではないけど優しそうで感じがいい、ということだってある。
本人の思いとは必ずしも違う。

実際、美しすぎる写真を見て、ふだんの顔の方が仕事をお願いしたい雰囲気だと私自身が感じることがあるし、ふだんの方がもっと素敵なのに・・・と思う人は少なくない。

私が、年齢を重ねた顔や生きざまが表われる顔に注目するのは、実はそういうところにある。
作ろうとしたイメージは、その中身と合致していなかったり、場当たり的なものだと、すぐにバレてしまう。透けて見えてしまうものがある。

昔のような業態ではくくれないような新しい仕事や産業も生まれ、組織の時代から個人の時代へと変わりつつある中で、個人で仕事をする人が増えている。

そういう個人がビジネスのために出す顔写真が、カメラ目線の証明書写真のようなきちんとした顔写真である時代は、たしかにもう終わったと思う。
しかし、だからと言って、握りこぶしのガッツポーズや、斜めに構えたオスマシ女性顔が、ビジネスのために出すプロフィール写真としてふさわしいかと言えば、それは違うのではないかと思う。
むしろ、臨場感溢れた姿を正直に見せること~その方が評価される時代になったと思うのだが、どうだろうか。

では、そういう生々しい顔、表情、しぐさ・・・そういう本来の中身が表れた「素敵」を、どう撮影すればいいのか。
そこは、本来のその人の個性や良さが出ているシチュエーションで撮影するのが一番だと私は考えている。
しかもプロのカメラマンであれば、その瞬間を上手につかむので、当然いい写真になる。
願わくば、カメラマンがいることを忘れるくらいのシチュエーションで。

しかしもしもそういうシチュエーションを作れるのであれば、撮影するのは、日常的に写真を撮りなれている人や構図のセンスがある人ならば、必ずしもプロでなくてもよいと思う。
むしろ、シチュエーションの方がはるかに大事だと私は考えている。

よくある「笑って!」とか「いいですね~!」という声かけでは、素人は本当のいい顔にはならない。なれない。
ましてや、「斜めに体を振って。右肩を少し前に出して・・・」というような慣れない立ち方(座り方)の指示では、益々作られた顔、嘘くさい顔になってしまう。

写真から声が聞こえてきそうな顔、
写真から飛び出てきそうな顔、
・・・一緒に仕事をした時のその人をイメージできそうな、こういうプロフィール写真が出ていると、私はその人に会ってみようかなと思う。
一度会った後にサイトで確認した際に、こういうプロフィール写真が出ていると、会った時の記憶と一致するから安心できるし、また会いたいと思う。記憶にも残りやすくなる。

結局のところ、その写真は自分が見るための写真なのか。それとも人に見せるための写真なのか。
~これによって、どういう写真がいいのかが決まるのだと思う。

人に見せるための写真が、本人とわからないくらいきれいではやはり意味がないように思う。
それは自分が大満足するための写真だからだ。

けれども、本人とはわからないくらい化けた写真ほど、しっかりお金をかけて撮られていて、しかも人に見せるための写真として活用されることが多いのは、なんとも皮肉なことだと思う。





自分ブランディングとしてどういう顔を出すか、セッション受付中。
撮影も承りますが、私が撮影するわけではありません。



顔、顔の写真についての記事

  整形しちゃダメだよ

  遺影は選んでおきたいけど準備していない~アンケート調査結果から

  遺影を決めていると語る芸能人の人たち

  i-faceで、こんな仕事しまし

2014年8月10日

整形しちゃダメだよ

映画「乱」の撮影の時、女優の原田美枝子さんが故黒澤監督に言われたそうだ。
「整形しちゃダメだよ。」

顔は、年齢とともに生きてきたいろいろなものが出てくるからいいんだ。けど、整形するとそこに無理が出てくるから。
~というのが、その理由だったそうだ。

当時の原田美枝子さんはまだ若くピチピチで、監督の言葉に対し、笑って「整形なんてしませんよ~」とかわしたそうだが、当時は故黒澤監督の言う意味など全く理解できてなどいなかったと言う 。

今になって、年をとればシワも出るし、やっぱりイヤだ。でもだからと言って、整形するというのも・・・、そう言えば、それがいいんだと言われたよなあ、と今思い出す、と言う。

たしかに、失礼ながら原田美枝子さんは年をとった。シワも増えたとは思う。
だけど私は若い頃の彼女よりも今の彼女の方が好きだ。
若い頃よりも品があり、ぐんと知性と優しい包容力が感じられ、とても素敵に年を重ねているなと羨ましく思う。

そう。
巨匠、故黒澤監督が言うまでもなく、年齢を重ねると、ぞの顔にはいろいろなものが表れてくる。美人さんだったかどうかよりも大事な「何か」が、そこにはある。
それは知性だったり品格だったり、あるいは愛情だったり幸せだったり、もしくは楽しそうな様子だったり、満たされた様子だったり。
残念ながら、逆に幸(さち)薄そうだったり、貧相だったり、高慢だったりする顔になっていくことだってある。「そう。ある、ある」と頷く方々も多いに違いない。
若い頃には目鼻立ちが優先するのだが、年齢を重ねると、目鼻立ちよりもこういうことの方が先に目につく。
いくら着飾っても、気取っても、透けて見えてしまう気がする。
そこが怖いところだ。

これが整形をすると、故黒澤監督が言う「年齢を重ねるからこそのいい部分」が消えてしまいそうな怖さがある。
偽善のような「作られたモノ」無機的な感じになる。
しかも年をとるので周りの肉が弛む分、その隔たりが引き攣れたり不自然になって行くのだろう。
若いうちはいいけれど、年齢を重ねればメンテナンスしないと顔が壊れていく・・・らしい。

そう思ってはいても、プチ整形でシワが消えると聞けば、自然な顔にこだわっている私自身でさえも、「ん?なになに?ホント?」と心惹かれるてしまうのも事実。
加齢を素直に受け入れきれず、残念ながらジタバタしている私、とも言える。
このジタバタ感の方が、シワの存在よりも残念なのに・・・と頭では思うのだが、その思いが消せないのは、とりあえず微妙なオンナゴコロとでも言っておこうか。。。(苦笑)

それでもやっぱり、百歳の人の顔を見れば、「これこそが、年齢を重ねた人の顔のよさだよなあ~」と、また再認識するのである。
百歳にはまだ遠いとはいえ、今の積み重ねが未来に通じるのは何事においてもそうだ。
顔だって、間違いなくそうであることを、今の年になって私も一応理解できるし、やっぱり自分の未来のためにも、微妙なオンナゴコロなんかに惑わされてはならん!と思うのである。




2014年8月5日

起業家にとっての大問題、生活費の不安

サラリーマンなどをやめて起業する人に対して、政府が年間650万円の生活費を最長2年間、支給する制度が今年中に始まると言う。


■起業家に生活費支給、

しかも、その生活費とは別に、1500万円を上限にした市場調査費や試作品製作のための費用も出ると言うのだ。

これはすごい。

起業家さんの立場としては、経済産業省所管の独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」の関連会社の契約社員となり、形は給料ということになるようではあるが、数年前に会社員を辞めて独立した私としては、何ともうらやましい話だ。

とは言っても、この制度の場合、実際に制度を利用できそうな人はかなり限られそうだ。本当に優秀な起業家に絞っていくという。

企業のあり方や個人の働き方が萎縮し、日本経済は萎縮していくなかで、国としても新しい産業を興していかねばばらないので、優秀な起業家を支援していこうという国の意図はよくわかる。

会社を辞めて一人で仕事をするというのは、当たり前のことながら、いくら働いても仕事しても、売上が上がらなければ収入が得られない。売上を上げて初めて収入を得るということだ。

そんなことは頭ではちゃんとわかっていたつもりだったけれど、私の場合、会社員として給与をもらう生活というのが予想以上に染み付いていたことを、退社後に痛いほど実感した。
私は、一定期間は売上0でも生活できるだけの用意をしてから退職したが、それでも売上0であれば不安がどんどん大きくなる。このまま売上が立たなかったらどうしよう、と思う。
扶養家族を多く抱えていればさらにその思いは強くなるに違いない。収入=生活費が心配になって、売上が立ちやすい手軽な仕事を次々引き受けて起業どころではなくなったり、就職活動をする人も少なくないと聞く。

そういうことを考えれば、この制度は本当にありがたい。
生活費の不安がなく起業準備ができるのだから。

しかし、意志の弱い人にとっては、ここは良し悪しになる可能性がある。生活費の助成が、起業進展スピードアップの足かせになるかもしれない。なぜなら、人は崖っぷちに立たないとなかなかやらない傾向があるから。

できることで収入を得るか、やりたいことで収入を得るか。~会社を辞めてから、この狭間で揺れていた自分を思い出す。

やりたいことで収入を得るのは難しく、できることの方が収入を得やすい。ましてや、やりたいことをどうやって仕事にするか試行錯誤していれば、ますますそれで収入を得るのは難しい。
そうなると、どうしてもできることで収入を得る方に流れやすくなる。
私の場合はそうだった。できることで収入を得る方が手っ取り早い。慣れているから悩まずにスイスイ進められる。
しかし、起業しよう、新たなビジネスを起こしたい、と思っている身にとっては、これは大きな障害になる場合がある。必死に考えることをついつい後回しにするからだ。

人と言うのはつくづく怠け者だと思う。水が上から下に流れるがごとく、ついつい楽な方へと流れていく。
起業家にとっての生活費は大問題であることに間違いないけれど、それでもそこが保障されないからこそ、必死に頑張れることだってある。退路を断たれるからこそ必死になって、馬鹿力を出せる側面もある。もちろん、その分自信を喪失するなど、とても苦しい思いもする。しかし、それがまた肥やしになって、トンネルを抜け出すことができるように思う。

とは言え、そこには基礎体力があるかどうかも大事であることを、最後につけ加えておきたい。