2016年1月27日

ケアしてもらうのではなく、自分で暮らしを作っていく ~高齢になってからの住まい方①

かつて入居金2億円という高級有料老人ホームを見学したことがあります。
そのとき一緒に見学した男性は、

 いいね〜、
 やっぱり金なんだね〜

と言っていました。
今でも彼は、お金さえあればそういうところに入りたいと言います。
だけど私は、全くそうは思いませんでした。

いくらきれいでも、いくら優しくしてくれても、
それだけではどこか満たされないような感じがしたからです。


心のためにいい暮らし方を考えたい


一人暮らしをしていた高齢のお医者さんが80歳を過ぎ、
その子どもたちが心配して一緒に暮らそうと持ちかけて、
呼び寄せたエピソードを聞いたことがある。
それまで町医者として近隣に住む人の健康管理をしていたお医者さんは、
子どもたち家族と一緒に暮らすようになった。
家族で同居すれば安心だ。
それと同時に、お医者さんは、自分の健康管理をしてもらう患者さんになった。
診ていた人から診てもらう人になったことで張り合いがなくなり、
みるみる弱っていったそうだ。

私の両親は80歳を超えたが、夫婦二人で暮らしている。
大きな病気をするわけではないけれど、年齢を重ね、だんだんと弱ってきたのを、

本人たちも子どもである私たちも感じている。
私たち姉妹は親にメールしたり電話でしたり、交代でときどき訪問したりしている

状況だけれど、この状況が今のまま永遠に続かないことは、
全員がわかっていること。
おぼろげに、これからどうなっていくのかなあと思う日々が続いている。

 できるだけ自宅で暮らし続けたい、
 医療は納得できる医療を受けたい
 いよいよの時に入る施設は、自分が本当に気に入る施設がいい

両親がいろんなことを言うので、
何かの参考になるかもしれないと、
今、私は高齢者のいろいろな住まいを見学している。


どんなに手厚いケアがあったとしても、
人が生きるというのは、それだけでは満たされないものがあると思う。
それは、
お金がたくさんあれば心が満たされるというわけではない、
というのと似ている。
お医者さんのエピソードはそれを如実に表わしている。

私の両親が何をもって心が満たされるのかは、娘の私でもわからない。
父の場合と母の場合では、また少し違うように思う。

少なくとも私自身だったら、と考えると、
高級な住まいとか、手厚いケアがある住まいとかいうのとは、
少し違うものを求めると思う。


サービスを提供するのではなく、一緒に「暮らしを作っていく」

ある有料老人ホームのwebサイトを見ていたら書いてあった。

サービスを「提供する」のではなく、一緒に「暮らしをつくっていく」という観点から、
皆さんの自分らしい暮らしをサポートします。

そう、私の場合はやってもらうことよりもこれが大事。
自分の暮らしは自分で好きに作っていきたい。
できれば気を遣わず自由でいたい。

そう思って見に行くことにした。





地域の人も利用できる食堂やオープンスペースがある

これが食堂の中の様子。
入居者さんにもここから食事を運ぶのかな。


綺麗にお化粧をし、、素敵なネックレスをつけ、スカーフを巻き、
洒落た腕時計とブレスレットをした装いで、
お一人で食事をしている方がいたので声をかけてみたら
入居者さんだった。

 今は寒いから外に行かないでここで食べるのよ。
 今日はあまりおいしくないわね。
 昨日はとてもおいしかったの。
 ここ?
 私は今89歳で、もう自分の食事の用意が難しくなって
 半年前にここに来たんだけど、ここは比較的自由でいいわよ。
 あっちの建物は入居金がお高いの。こっちはお安いんだけどね。

そう言って、私に入居金を教えてくれた。
その人が高い方にいるのか安い方にいるのかはわからなかったけれど、
今の住まいにとても満足している様子はうかがえた。


今日の日替わり定食。720円。
入居者さんだけでなく、近隣で仕事している人なのか、いろんな人が食べに来る。



食事をしながら隣りの席にいた女性の二人組と話してみたら、
そこから車で数十分の距離にある同じ系列の施設の食堂の人だった。
見学に来たと伝えたら、
それならうちも見に来ない?と言われ、連れて行ってもらうことになった。

ここは旧公団(今のUR)の団地にエレベーターを敷設し、
横に食堂兼交流スペースを建てて高齢者住宅としてリノベーションした
施設だった。
入居者さんはお元気な方たちばかり。
昔の団地をそのまま残してきれいにしているから、
かつてお住まいの方にとっては懐かしさもあると言う。

右側の平屋が食堂兼交流スペース

こちらの食堂も、入居者さんだけでなく誰もが自由に食べに来られる。

白い部分が敷設されたエレベーター
食堂の中の窓は大きなガラス張り。眺めがよくてとても気持ちがいい。

ドアを開けてまず驚くのは空間の気持ちよさだ。
床、壁、テーブル、椅子、木の温もりが温かく、眺めも抜群。
優しい空気に包まれるような感じだ。
食堂の営業時間はランチと夕食限定で、
この時間は入居者さんも外の人も、入りまじって出入りしている。
私が行った時間には、
おそらく職場が近い仕事をしている人、
近隣に住んでいると思われる高齢者さん、
そして数人が固まってワイワイおしゃべりをしている入居者さんグループが入りまじっていた。
ここは食材や環境にこだわっている食堂だそうで、お料理の彩りもとてもきれいだった。

営業時間以外の時間は入居者さんの活動に使われる。
私が失礼する頃には、テーブルを並べ替えていたので、
きっとこれから何か始まるのだろう。

入居者さんの出入り口。入ってすぐにフロントがある。
通路の本棚には図書。寄贈されたものも多い。



奥の白い建物が高齢者住宅(施設)だが、手前のブルーの建物は子どもがいる若い家族が暮らす住宅。

高齢者用、家族用と並んで建つこの建物は、外国人と大学生が一緒に暮らすシェアハウス。

高齢者の住宅、
若い家族世帯が暮らす住宅、
外国人と大学生が暮らすシェアハウス。

上記写真の建物はすべてURの団地をリノベーションしたものだ。
夏祭りなど、団地でイベントをやる時には、高齢者も若い家族も外国人も大学生も、みんなに声をかけているのだとか。
住んでいる人が年老いて、建物もボロボロに古くなった団地が、
こうやって再生していくのはおもしろい。

webにあるように、「一緒に暮らしをつくっていく」業者の姿勢が見えてくる。
それでもやはり運営者主導。
これがさらに住民主導で暮らしをつくっていけたらどんどんおもしろくなるだろう。
それも多世代がまじりあいながら作っていけたら・・・・
高齢になった時、それがどこまで機能するのかが問題ではあるけれど。

だけど、その「おもしろい」は私の場合だ。

嗜好も、目指すものも、価値観も、みんな人それぞれ。
一緒に暮らすとなれば、ますますいろいろ難しくなるのはあたりまえだ。
だけど、だからおもしろいことがいっぱいありそうな気がする。
いくら文句を言っていたとしても、文句を言わなくなる方がむしろつまらなくなる。
文句を言いながらでもやることは、周りとの関係がある証拠。

さて、私の両親の場合はどうなんだろう?!
父の場合は? 母の場合は?

いろいろ見ておくことが、
これからの両親の暮らし方、住まい方を考えるために、
そして私自身の暮らしを考えるためにも、きっと役立つはずだ。


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2016年1月15日

卑下することは相手を傷つけることもある


思いもしないことでした。

私が自分のことを卑下しているなんて・・・。
そしてそのせいで人をイヤな気持ちにしていることもあるなんて・・・。

それは自分を守りたいがあまり、
自分へのいいわけをしていただけだったのかもしれません。


Facebookのコメントが教えてくれた

つい先日のこと。
天気予報の表現に違和感を感じて、
ツッコミたくなる思いをfacebookに書いた。

 天気予報では、
 「今日は真冬のような寒さです」を連呼してるけど、
 私は、「だって今、真冬じゃん!」って毎回ツッコミたくなる。
 たしかに今日はとっても寒いけどね。

天気予報の表現が気になって気になって仕方がない。

だから投稿したのだけど、そのあとでちょっと気になり始めた。
何言ってるの~?うるさいこと言うヤツ!って思う人もいるのかもね、って。
そこで、以下のように追加でコメントした。

 今日のことを言うなら、「真冬らしい寒さ」だろ?!って思うんですよ。
 「~のような」と言うなら、「春 のような暖かさ」とか。
 ・・・などと言いながら、ああ、私って細かいイヤな奴かもね~と
 もう一人の私が言ってる。

そうコメントして、ちょっと安心した自分がいたのも事実だ。
それに対して、Facebook友達が以下のようなコメントをくれた。

 正しい日本語を使い、残し、伝えていくためには
 石崎さんのような方の存在は必要ですので。
 ご自分を卑下?してはいけませぬ!
 石崎さんは、不正確な日本語使う中正しい道に導く女神さんのようです。

こそばゆいけど嬉しかった。
それと同時に、自分を卑下しているなど思いもしなかったので、
意外な気がしていた。

しかし考えてみれば、似たようなことがある。

いえいえ、たいしたものではございません・・・

12月にエンディングノートの取材を受けた。
それは1月7日発売の女性セブンで掲載されたのだが、
それに対して、喜んでくれる方、宣伝してくれる方、手に入れてくださる方・・・・
いろいろいらっしゃったにもかかわらず、私は

 いやいや恐縮です(^^;;

 ちょろっとしたものですよ(^^;;

 手に入れてもらうには申し訳ない程度のものですから。

と方々に言い続けたのである。
それを聞いた先輩が私に言った。

 掲載されてイヤだったの?

とんでもございません!
掲載していただいたのはありがたいことだし、
それを喜んでくれる方や宣伝してくれる方には素直に感謝の思いがある。
にもかかわらず、私は「いやいや」と、返していたのだ。

なぜ自分を下げて言うんだろう。

無意識の中で、
「たいしたないね」と言われるのが怖くて言っているのかもしれない。
どこか自分としては傷つけられたくなくてリスク回避のつもりで
そうなっているのかもしれない。

自分だけじゃない

しかし、それは自分だけの問題ではなかった。
先輩は私に続けた。

 石崎は掲載されてイヤだと思っていたんだ~と感じる人がいたかもしれないね。

想像もしないことだった。
そう感じた人は、私に余計なことを言ったと思ったかもしれない。
気まずい思いを抱かせたかもしれない。
せっかくのありがたい好意を、私は素直に受けなかった、ということだ。
申し訳ないことに。

ふり返るとそう言うことが度々ある。

お祝いしてもらった時に嬉しくないふり(!)をする、
お誕生日の時におめでとう、と言われ、
「トシですから」「めでたくなんかないよ」と悪びれて返す。
・・・・

自分を卑下するということは、自分だけの問題ではない。
卑下することで人を傷つけることがある。

遠慮すること、謙虚であることを美徳とする価値観が、
私の中でおかしな変化をしている。
それによって素直に感謝できず、知らないうちに相手を傷つけているとしたら、
なんと残念なことだろう。

今まで意識せずに失礼しちゃった皆さま、ごめんなさい。
こういうことに気づかせてくれたFacebookのお友達の方、先輩、ありがとうございました。

もう少し素直にならないとね、私。




エンディングノートを使って、これからの生き方を考える
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2016年1月6日

死生観は意味があるのか、ないのか。

「終活」という言葉が流行語大賞にノミネートされたのは2012年のこと。
葬儀やお墓、相続、看取り等、人生の終末まわりの情報を目にする機会が、
ぐっと増えてきたように思います。
本来、そこで問われるべきことは死生観ではないでしょうか。
私は今までずっとそう思ってきました。
けれども1年くらい前から、本当に死生観は必要なのだろうか、と思うようになったのです。

私が命の終わりについて考えるようになったきっかけ

そもそも私自身はもともと命について考えるタイプではなかった。
ただ、どんな人も年齢を重ねれば重ねるほど
イキイキと生きていける世の中であればいいのに、そういう社会づくりに寄与したい、
・・・と漠然と考えていただけだったのだ。

ところが、数年前に義父が重篤な病気になり、
その際、医師から

 ご本人の人生観、人生哲学に照らし合わせて
 家族でよく相談して治療法を選択するように。

と言われる場面に立ち会ったのだった。

人生観?人生哲学?
そんなもの、どれだけの人が持ち合わせているのだろうか?

死生観なんて考えたことない

篠田桃紅さんは、1913年3月生まれでもうすぐ103歳。
まずは美術家でおられるが、多数のご著書も出している。




当時まだ103歳にはなっていないはずなのに、タイトルに103歳と入るのは、
出版社の陰謀に違いない(苦笑)けれど、
103歳になってわかったことを伝えてくれるなんて、すばらしいことだ。
こういう方がいらっしゃると、未来に希望を抱ける。

美術のことはよくわからないので、
篠田桃紅さんの栄誉ある業績については私は何も語れないけれど、
篠田さんがテレビで語っていた言葉は私にとっては衝撃的だった。

 死生観なんて持ったことはない。
 なるようにしかならない。
 死ぬことを考えるなんてナンセンス。

ナンセンス・・・?!
本当にそうだろうか。

100歳を超えるまでしっかりたっぷり生きてきて、
今なお現役で芸術を追求されている方の言葉だからこそ、説得力がある。
だけど・・・。

死生観ってなんだろう?

人は死んだらどうなるのか? 〜人によっていろいろ考え方があるだろう。

 死んだら終わり

 肉体は滅びても魂は次の肉体に宿る

 星になる、空から見ている

 心の中で生きている

こういう考え方そのものを死生観という人がいる。

そこまで直接的でなくても、
宗教観に近いものと捉えている人もいるかもしれない。
私自身は、命について考えること、どう生きたいかを考えることが
死生観の始まりだと思うようになった。

若い頃はそんなこと考えたこともなかったけれど、
生きているということは、
本来そういうことを考えながら年を重ねていくということだと、今、思っている。

なぜなら年を重ねていくことは、死に向かって進むことでもあるからだ。

それは意識してかどうかは別にしても、
家族や身近な年長者と関わりながら、
あるいは身近な死の経験を通して自分なりに考えていくものなのだと思う。

だけど効率化を優先する今の時代、
時間的にも空間的にも気持ち的にも余裕がなくなってきた。
家族の形が多様化し、年を重ねること、死に向かっていくことを考える機会は
激減している。

だから、私たちはふだん「死生観」など考えもしないのだけど、
それで本当にいいのだろうか。

篠田桃江さんは、長く生きてきて
美術家として今もお元気で活躍しているから、そんな風におっしゃるのではないかしら。

一般の人はそうそういつまでも元気ではないし、
自分自身がそうそう強くないし、
晩年までそうそう活躍し続けることは難しい。
だから・・・

死生観に意味があるかどうかをもう少し考えてみよう

私が生きざまがにじみ出た顔つきに興味を持ち、
その集大成ともいえる遺影に興味を持ち、
エンディングノートや終活に関心を抱くようになって以来、
私は死生観とは何か、親の死生観、自分自身の死生観を考えてきた。
その意義もそれなりに感じてきたが、
篠田桃江さんの言葉で原点に戻されてしまった感があった。

そんなときに

生命の終焉を考える
~ヒトらしく生きるために必要なこと~

を見つけて、昨年から通っている。

命(いのち、生命)に思いを馳せると、自分らしく生きられるはず。
高齢になってからではなく、40代・50代だからこそ余計意味を持つ。
・・・私が漠然と抱えていたその思いに、今、一つ一つYES!をもらっているような感がある。
今週末はその最終回を迎える。

2016年の今年、考えたいこと、お伝えしたいことはさらに広がっていきそうだ。
本年もどうぞよろしくお願いします。


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トラベシアのエンディングノート講座 毎月開催中
~エンディングノートを使って、これからの生き方を考える~ 

 ◎ 1月の開催 ◎

 1月13日(水)18:30~20:30 麻布十番にて。

【 テーマ 】
  家族信託
  ~今だけでなく、これからもずっと円満家族でいるための契約になるか?!~

金融機関に頼らない、家族が家族のために自ら進める、
新しい可能性になるかもしれない家族信託。

相続税改正で相続や遺言が注目されてきましたが、
金融保険業界の商売にならない「家族信託」については、
あまり語られることはありません。
でも、どうやら家族のことを今一度考えるきっかけになりそうです。
今回、「家族信託」のパイオニアを目指す専門家にお話を聞くことにしました。

会員制の継続講座ですが、初回は体験参加できます。 
体験参加費;3,000円(消費税別)
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