2016年6月20日

白川由美さんの遺影は、20代前半の時の横顔でした

6月14日、女優の白川由美さんが心不全のため亡くなり、
17日に東京都渋谷区の祥雲寺でお通夜が営まれたそうです(享年79歳)。
近親者のみでという報道でしたが、結果的には約500人が参列。
そのシンプルな祭壇には20代前半に撮影したという遺影が飾られたことが
ネット上のニュースに出ていました。


http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/18/kiji/K20160618012801950.html

遺影を見る機会が少なくなった

かっての葬儀は大きくて、訃報を知ったらとりあえずお通夜に駆けつける、という
のが当たり前で、だからいろいろな方の遺影に出会う機会がありました。
近親者だけの葬儀は、昔は密葬などと言われて、あまり多くありませんでした。
芸能人や有名人も近親者のみということが少なかったから、
訃報の後の芸能ニュースではだいたい遺影が飾られた祭壇が出てきたものです。
今は、葬儀が簡略化し、家族葬が増えたこともあり、有名人・一般人問わず、
近親者でもない限り遺影を見る機会が少なくなりました。
だから葬儀・終活業界でもない限り、一般の人が遺影について考えることなど、
たぶんほとんどないのではないでしょうか。

遺影について思うこと

私が終活やエンディングノートの世界に入っていったのは、生きざまが滲み出た「顔つき」に興味をもったから。
その「顔つき」の究極が遺影だと考えていたので、その昔、ブログで遺影について思うことを書いていました。

私はカメラマンではないので、自らファインダーを覗いてひとさまの遺影を撮ることはしないけれど、
それでも

なぜ遺影が大事なのか?
どういう遺影が素敵なのか。喜ばれるか。
本人にとって、
遺された家族にとって、
友人知人にとって・・・

そういうことだったら、持論がありました。
たぶん当時、世の中の誰よりもそういう思いを強く持っていた、
という自負があったので、そんなことをぼちぼちとブログに書いていたのです。

そのせいか、一部で「遺影研究家」なんて言われることもあり、
私自身も、その言われ方はまんざらでもない気分。
ちょっと嬉しかった。。。
最近は遺影についての発信をあまりしていませんが、
その興味関心は、今も変わらずアツいものがあります(笑)。

この度の白川由美さんの訃報で私がまず思い出したのは、二谷英明さんの遺影でした。
煙草を燻らし、ちょっと斜めを向いて。
それはそれはカッコいい、クールで品が良く色気もある写真でした。
二谷英明さんは晩年に患った脳卒中の後遺症で車椅子生活で、施設におられたそうですが、その頃、白川由美さんの寝室にはこの写真を大きく引き伸ばして飾ってあったそうです。
二谷英明さんの葬儀で、白川由美さんは
「素敵なパパ。
皆さんには素敵なパパを覚えていてほしい。」
と言って、その写真を遺影に選んだというエピソードがありました。

20代前半の写真を遺影に選んだのは、白川由美さんご本人でしょうか。
それとも喪主を務められたご長女の二谷友里江さんでしょうか。
おしどり夫婦で有名だった二谷英明さんと白川由美さん。
二谷英明さんが旅立たれてわずか4年で、追いかけて逝かれました。

遺影っていつの写真がよいのですか?

ときどき終活や遺影についてお話をする機会があり、
そこでよく聞かれるのが
遺影はいつの写真がいいのですか?
という質問。

いろんな考え方があるでしょうが、
私の答えは
いつだってよろしいと思いますよ
です。

ほんの30〜40年くらい前の遺影は黒枠、白黒の怖い顔で、笑うなど持ってのほか。
普段のスナップ写真が遺影に使われるようになったのは最近のことです。
遺影がない葬儀なんて考えにくいかもしれませんが、一般の人のお葬儀で遺影が飾られるようになってから、まだせいぜい100年経つかどうかのこと。
決まりなどないのです。


今もお元気でご活躍中の鳥越俊太郎さんは、
ご著書のなかで遺影を決めていると書いていますが、その写真は30代のとき。
それは毎日新聞の記者としてテヘランにいらした時の写真です。
おそらくご自身が一番思い出深かった時なのだと思います。

そして今回の白川由美さんは、今から50年以上も前の写真を遺影にしたことになります。
しかも少し横を向いていて、目をきりっとして、自分の胸に当てた手にも力が入っているように見えます。
女優さんらしいなあと思いました。

私たち一般人の場合は、
数十年も前の写真を遺影に使う人はあまり多くないかもしれません。
だけど自分の今までをふり返って、遺影にしたいくらいの時期っていつなんだろう?と
考えてみるのも、悪くありません。

そういう写真を何枚か用意してみませんか。
それはきっと、その時の自分にOKをだしている証しでもあります。
できれば少しづつそういう写真を増やして行けたら、自分の人生が豊かになっていくような気がします。




2016年6月19日

一喜一憂する理由は比較するから。でもどうせ比較するなら

若い頃、手足が細かったはずの私も、年齢と共になかなかそうはいかなくなってきました。
暑い時期にノースリーブを着て出かけた日、若い人と一緒に撮ってもらった写真を見て現実を突きつけられました。
がっくり・・・
二の腕の悩みって、こういうことだったんだ~と納得したのが数年前のことでした。

先日実家に帰り、家族一緒に近所に出掛けた時、私の後ろの方から歩いてきた母が私に言いました。

いいわね~、ノースリーブが着れて。
私なんて二の腕がたるんじゃって、隠さないと外に出られないのよ。

 え〜っ?!(叫ぶ)

母は続けて言いました。

ピッチピチよ~
うらやましいわ~
私なんていつのまにか二の腕がブラ~ンって弛んじゃって、もう絶対腕を出す服を着るなんて無理になるんだから。
 
はあ?!
ピッチピチかぁ?!
10代じゃあるまいし。

母は81歳です。
80歳越えた母に羨ましがられてもね〜(苦笑)


母も私も比較してる
母は私と比較して羨ましい、と言っているのです。
でも私は10代20代の頃の自分と比べてガックリ。
さらに母と比較して、そりゃそうでしょとちょっとホッとしたり、冗談じゃないよと思ったりしているのです。
たしかに81歳に比べればピッチピチなんでしょう。

考えてみれば、私たちはしばしば他の人と比較して、それで一喜一憂しています。
自分は自分、Going my wayができればいいのだけど、無意識につい他の人と比較して自分のダメさ加減にうんざりして苦しくなる。
時には他の人だけでなく、過去の自分とも比較して、私、こんなじゃなかったはずなのにって。
そういうことはしたくないと思いながら、比較している自分に気づいて、内心、しまった!と思うことが私にはしばしばあります。

何と比較してるの?私。
比べるから、
嬉しくなったり、苦しくなったり、気持ちが揺れるのです。
わかっているのだけど、ね…。

人生は生まれてから死ぬまで。
私がエンディングノートに関わるようになり、よく言っていることが、
人生は生まれてから死ぬまで。

過去があって、今があって、未来がある。
今の積み重ねが未来を作る。
今の積み重ねが将来の顔つきにまで表れてくる。

どうせ比べるんだったら、自分と比べる。
「自分と比べる」となるとついつい過去の自分と比べがちですが
比べるなら、将来の自分と比べてみれば
苦しくなったりイヤになったりしないのではないかと思い至りました。
間違っても将来を憂うのではありません(・・;)

将来、それも5年後の私、10年後の私、20年後の私と、今の私を比べてみる。
自分の将来をイメージして、今の自分と比べようとすると、今の自分にガタガタ言ってなどいられないなと自分に苦笑いしてしまうのです。

でもそのためには、将来の私をイメージしてみないと、比べることもできません。
日々に追われていると、なかなか将来をイメージする機会はありません。
私にとってエンディングノートは、将来をイメージするためのきっかけの一つでもあります。
40代50代がエンディングノートを開いてみるのは、そんな意味もあるのではないかと思います。






毎月開催してきた40代50代から人生を考えるためのエンディングノート講座
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《7月のエンディングノート講座》
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【テーマ】
 これからの生き方を考えるワークショップ
  「私の人生をふりかえる」~命が終わろうとする時~

【日 時】 
 7月14日(木)18:30~20:30

【場 所】
 麻布十番サロン

【宿題★ご参加にあたって考えてきてください】
 自分の人生に大きく影響を与えた人物5人を書きだしてくる。
 よくも悪くも自分の人生に大きく影響を与えた人物
 (生きている人、死んでいる人、偉人、アイドルなんでも可) 
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2014年4月からスタートし
毎月開催してきた40代50代から人生を考えるためのエンディングノート講座は

2016年7月が最終回です。

会員制の継続講座ですが、体験参加も受け付けています(初回参加に限る)。 
体験参加費;3,000円(消費税別)お申し込み、お問い合わせはこちらまで。

トラベシアのエンディングノート講座は、
原則毎月第2水曜日開催、会員制・月謝制の継続講座(体験参加も受付中)

入会金 10,000円
月会費  6,000円
☆体験参加は、3,000円  (いずれも消費税は別途)

ご用意いただくもの
・お持ちのエンディングノート
・筆記用具

2016年6月16日

楽しいことだけやっていればいいわけではないことを痛感しました

最近私の世代では、急に運動してカラダを傷め、運動ができなくなったと嘆く人ご増えています。
私もその一人です。
でもそれは、カラダだけの話ではないことに気づかされるのです。

確実に運動不足

会社員を辞めて、自宅を拠点に仕事をするようになったら、著しく運動不足になりました。
元々の怠け者性分も手伝い、万歩計によれば1日当たり18歩!
もはや寝たきり状態です。
まあ、万歩計をつけ忘れていた時間もあるけど。
まず毎日の通勤がなくなるから歩かなくなるのです。
駅の階段の昇り降りも激減しました。
満員電車じゃないから、意外にゆっくり座れることも多くなります。

筋トレを、やらねばならぬ!しなくては!

そんなことから、近所の筋トレ施設に通うようになりました。
そこは比較的高齢者が多く来ているところで、皆さん驚くほど元気でした。
マシン30分、ストレッチ5分。 
コーチが回って指導したり、励ましたり。
毎回同じことを黙々とやってさっさと帰る。
今思えば、たぶんその時の私は少しずつ筋肉が増えていたのだと思います。

だけど、私にとってはその筋トレがどうにもつまらない。
人によっては、ストイックなまでに筋肉を鍛えることに熱心な人もいるようですが、私はあまり関心が持てませんでした。

つまらない、つまらない、つまらない。
もっと楽しくやりたい。

本当はダンスが好きで以前は少しやっていたのですが、
忙しくなって全くやらなくなってしまいました。
マメに通っていればそれなりに多少踊れるようになって楽しいのだけど、
忙しくなるとなかなか行けなくなってしまう。
そうすると踊れなくなり、楽しくなくなってしまう。
ーーいつのまにか行かなくなってしまいました。

加えて、走る・踊るなど有酸素運動だけでは筋肉が作りずらいことも知りました。

きちんとパーソナルトレーナーをつけて、私の志向に合うプログラムで、しかもカラダに合うものを、という選択もあるでしょう。
でもそうなれば、きっと1回当たり1時間ではすまない、
2〜3時間をかけ、それを週に2〜3回継続するなんてことはそうそうできることではないから仕方がない、
と自らを納得させ、「やらねばならぬ」の思いで、週に2〜3回、2年近く通ってはいたのです。

すると、近隣に全く違ったタイプのスポーツ施設ができました。



楽しそうだから、つまらないことはやめちゃおう!

ヨガ、ピラティス、太極拳、ズンバ、トランポリン・・・
全て音楽に合わせたグループレッスンで、1回45分。
しかも毎月プログラムが変わります。

楽しそうかも。
多少筋トレにも効果あるかも。

迷った挙句、私は今までの筋トレ施設のメンバーをさっさと退会し、
新しい施設のメンバーに入会し、通い始めました。

インストラクターのグループレッスン。
プログラムもバリエーションがあるから初めてやることも多く、
できずにアタフタしながらも、始めたのでした。
スローやアップテンポの音楽に合わせて。

楽しいかも(^^) 
たっぷり汗をかき、満足度が上がった感じ。
でもあまり筋トレになってる気がしない。
もっとハードにやればいいのかな。

いつも以上にハードにやった翌日、
私は膝の痛みで歩けなくなってしまったのです。


つまらなかったことを続ける価値もそれなりにはある

お医者さんの診断によれば、膝の痛みの原因は鵞足(がそく)の炎症。
持ってる筋肉以上の負担をかけて、その周りを傷めてしまった、ということでした。

残念ながら長年の運動不足は、思っていた以上に私を老化させ体力筋力が落ちていて、運動を楽しむには、やや負荷が強かったということです。

楽しいことをやりたい。
好きなことを。
そう思った結果でした。
それが間違いとは思わないけれど、「いきなり」はダメだったということ。

基礎練習、基礎体力。
上手な人は、基礎体力が違う。
それはコツコツと地味な努力の賜物です。

「ポッと出」がいきなりガンガンできるわけではなくて、
ガンガンできる人、上手な人は努力してたり、継続してたりするわけです。

運動に限らず、いろいろと思い当たる節があります。

便利な世の中になり、情報はたくさん転がっている。
だからあまり勉強しなくても、上っ面だけの切り貼りの知識で、
尤もらしい「わけ知り顔」をすることだってできてしまう。

私の膝の痛みは、そんなことまで気づかせてくれる出来事になりました。

ここまで書いて記事公開後にイチローが記録更新!


イチロー語録が次々とニュースで出てきて、
ますます地道な努力の積み重ねの重要さをタイミングよく知らされている今・・・です。

2016年6月8日

子どもも、高齢者も、行きたい所に行かれないのはいろんな格差につながって い くと思う。


宮城県の部活では試合に行くのも大変。

東日本大震災依頼、鉄道が通らなくなったことで、公共交通機関では試合会場まで行けず、部活の顧問の先生の車で行かざるを得ない、という現実があるそうです。

入学時に保護者から
「お子さんを先生の車に乗せることがありますけどいいですか」
という同意書を取っている学校もあるとか。
教員の車による生徒の送迎なしには、学校運営そのものが成り立たない実態がそこにあります。

行きたくても「足」が確保できなければ行けない。
以前、同意を取ることに注目してこの件を書いたけれど
http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

この件でもう一つ注目したいのは足の確保の問題。

部活の中学生・高校生の中には、試合や大会に参加するためにどうやって足を確保しようかと悩まざるを得ない鳩たちがいるということ。
足が確保できなければ諦めざるを得ないのです。
たぶんそれは震災に関係した地域だけではなく、過疎の進む地域共通の悩みでしょう。

マイカーが増えて電車やバスの利用客が減る。
電車もバスも、民間が運営する以上は、
乗る人がいなくなれば存続できないのは当たり前。
だから廃線、廃止になってしまうのだけど、
でも暮らしている人にとっては、それは行きたい所に移動する自由を奪われていることでもあります。

誰もがマイカーを運転できるわけではない。
上記の例のように、部活の中学生・高校生といった運転免許がとれない子どもたちだけではありません。
大人でも諸事情で運転免許を持てない人もいるでしょう。
免許証を自ら返納した高齢者だってそうです。

そのせいで、病院に行けない。
買い物にも行けない。
友達のところに行けない。
役場に行けない。
やりたいことを諦めることが多くなる。
結果、孤立したり家にこもりがちになったりすることも。

いろいろな機会を奪ってしまうのです。
だから家族の送り迎えが必要?
だから学校の先生が車を出す?
それって、やっぱりおかしいと思います。
そうやって周りに負担をかけなければ、自分が行動できない環境というのは、基本的人権を奪われてる。
周りに無理を強いたり、遠慮してガマンしたりすることは、格差を生んでしまいます。
そして、その差はどんどん広がっていってしまいます。

地域や社会のしがらみいっぱいの中、何でもルールがあって周りについていけばよかったかつての時代と違い、今は、たくさんある選択肢から何を選ぶか、「自分」はどういう生き方・暮らし方を望むかを自分で考え、選択できる時代。
それは、個々の自立を促す時代でもあります。
だからこそ、せめて移動のためのインフラは確保しておかないと。
奪ってはならないと思うのです。

高齢者に至っては、インフラが確保できなければ自立を奪い、心身が弱っていくのを加速させていくのではないかと思います。


2016年6月4日

同意しないと何もできないから、どんなに同意したくなくても「同意します」

宮城県の部活では試合に行くのも大変。
東日本大震災依頼、鉄道が通らなくなったことで、公共交通機関では試合会場まで行けず、部活の顧問の先生の車で行かざるを得ない、という現実があるそうです。

入学時に保護者から「お子さんを先生の車に乗せることがありますけどいいですか」という同意書を取っている学校もある。教員の車による生徒の送迎なしには、学校運営そのものが成り立たない実態がそこにある。

部活動の送迎 違反に悩む教諭(2016年5月26日(木)掲載) - Yahoo!ニュース
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202245


リスクの可能性もあるから同意

いつのまにか、何でもかんでも同意書ですね。
少なくとも、今から20年くらい前にはこんなに同意を取ることなどなかったように思います。



エンディングノートに携わっている立場から見ると、
同意書と言ってまず頭に浮かぶのは医療現場です。

インフォームドコンセント、インフォームドチョイス・・・
「きちんと説明を受けた」ということに間違いありません、とサインして
次に[治療を選択」し、万一のことがあるかもしれないけど責任は問わないことに同意する。

医学の進歩によって、医療は選択する時代へと移ってきています。
その分リスクも高まるわけで、どのたびに「同意」が求められるのです。

本当はイヤだと思っていても、同意しないと前に進めません。

「同意します」は、「仕方ないね」とほぼ同義語です。

前に進め、と言う意味の同意

ネットの世界はもっとひどいかもしれません。
なんだかよくわからないことがだ~っと書いてあって、
最後に「同意します」にチェック。

読んでもよくわからないし、とりあえず「同意」「同意」…
実際、ちゃんと読んで同意している人ってどれくらいいるのでしょう?!
だけど同意しなかったら、前に進まないから、
同意せざるを得ません。

「同意します」は、もはや「ススメ!」と同義語です。



アンケートに答える時も、
お店のお客様会員になる時も、「同意」を求められます。

今の時代、いちいち「同意」。
だけど、本当の意味で同意してなんかいません。
面倒くさいから「同意」。
前に進めないから「同意」
やむなく「同意」にチェックしているだけで、気持ちとして同意などしてはいないのです。

これ以上、実際は同意していないのに「同意」が増えていく世の中になると、
なんだか嘘ばかりな感じがして、私はどうもざわざわしてしまうのです。